いわゆる「良いこと」が苦手な話

  私は世間的に言う「良いこと」が苦手である。身近な例では、世界平和や国際協力を主張して遠い外国へ援助を呼びかける、直接被害に遭った訳でもないのにヘイトスピーチのカウンターに出向く、親に迷惑をかけたくないとの理由で家計が苦しい訳でもないのに奨学金を借り、生活費も全てバイトで賄う、そして、それらを他人にも求める、勧めることなどである。断っておくが、私はこれらの人たちを非難する訳ではない。彼ら(彼女ら)は良い人たちである。それこそ私などよりは余程尊敬に値人たちだろうし、彼らの行動も素晴らしい善行であることは間違いがない。しかし、どうも彼らを見ていると違和感を感じてしまう。

 単純に自分が腐っているだけだと言うことも考えられる。多くの人はそのような理由でむしろ私を非難するだろう。自分もこのような性格が決して「良い」ものではないことは心得ている。

 ところが、最近興味深い言葉を知った。「supererogation」という英語の言葉である。日本語読みにすると「スーパーエロゲーション」という面白い(?)響きになるこの言葉の意味は「義務以上の働き」である。先日読んだ本で知ったこの言葉はまさに私が苦手としてきた行為を表す的確な言葉だった。

 世界平和や国際協力という主張や行動は素晴らしいものである。しかしながら、それは各人に課せられた「義務」とまでは言えない。アフリカで5秒に1人子供たちが残念なことに亡くなってしまっても、我々が「義務」に反したと咎められることはないだろう。一方で、アフリカの子供達を救い得たとしてもそれは単に「義務」を履行しただけとは言えない。それは義務を超えた過剰な行為(supererogation)いわばお節介だからである。

 このような「supererogation」は大抵「良いこと」を理由に押し付けられがち(義務とされがち)である。あなたがもし友人から募金を頼まれた時、金銭的に困ってないにも関わらずそれを断れば非難されることはあるだろう。奨学金を借り、生活費をバイトで賄う友人に対して自分の家では親が全て出してくれていると話せば同じく非難される可能性がある。

 この場合、非難されたあなたはどのように反論すればいいだろうか?あなたが余程の人間でもない限りは反論できず素直に平謝りをするか相手の要求を呑むしかないのではないだろうか。

 私は、ここでもし、「supererogation」に対応する日本語があればと考える。基本的に「良いこと」を勧めてくる相手方はそのことを「すべき」という義務と捉えて話を進めることが多い。そうであれば、「supererogation」に対応する言葉があることで相当程度、このような「良いこと」を「義務」としていわば押し付けてくることを弾くことが出来るのではないかと考える訳である。

 日本社会ではことさら、「感謝」を強要される場面(例えば小学校の二分の一成人式をイメージして欲しい)、あるいは「良いこと」すべしと前面に押し出してくる風景(優先席をイメージして欲しい)が多く存在する。日常生活の中にも冒頭や文中に挙げた例の様に「良いこと」を「義務」と勘違いして押し付けてくる人たちが多い。「することが望ましい行為」と「絶対にするべき行為」の区別がない社会は息苦しい他ない。

「supererogation」という言葉に対応する言葉はおそらく当面の間編み出されないかもしれないし、浸透することもないかもしれない。しかし、そうだとしても、もう少し社会として「良いこと」を「義務」の如く押し付ける風習は辞めて貰いたいと社会に適合できない私の様な人からは言いたいものである。もちろん、その様な風習を辞めろと要求し、その風習を捨て去ることも「supererogation」なのだが.....